お経と成仏

昨日Yahoo!で読んだ記事に関する話。ちょっと怖いかもしれないので、苦手な方は読まないでくださいね。

あるお坊さんの手記なのかな。記憶だけを頼りに書くのでその内容を正しく知りたい方はYahoo!でその記事を確認していただきたいのですが、そのお坊さんがある富豪の自宅に呼ばれたと。玄関に到着し、呼び鈴を探したものの見つからない。どうしたものかと思っていると、機械的な声で「どちらさまですか?」と尋ねられたと。なので名を名乗ると「お待ちしておりました。」と言われて扉が開き、家の中に招かれたと。要はAIで制御された家で、玄関での声もAIによるものだったらしい。家のなかで主人と面会し、日も暮れたので帰ろうと思ったところ、主人から「もう少しいてほしい」と言われたと。21時を回ったところで主人の寝室に移動すると、AIが来訪者を招き入れる声が何度も聞こえ始めたと。「いらっしゃい」「いらっしゃい」みたいな。そこでAIに向かって「今、家には何人いるのか?」と聞いたところ、そこには自分と主人の2人しかいないにも関わらず「22人」と言われたそうで。「その22人はどこにいるのか?」と聞いたところ「寝室」と言われたらしい。主人はこの現象で困っており、お坊さんに助けを求めたとのこと。そこでそのお坊さんがお経を唱え、唱え終わってから主人に「AIに人数を確認してほしい。」と依頼し、主人がAIに確認をしたところ「2人」と言われたんですって。面目躍如だったぜ、という記事でした。

この記事を読んで「怖えなぁ…」と思ったのはいいとして、主には2つのことを思いました。
ひとつは赤外線なのか何なのかは失念しましたが、それに霊が反応するのであれば、なぜ守護霊は反応しなかったのかな?ということです。人間ひとりにつき複数ついているはずなので、AIが反応するとしたら「寝室に100人います。」と言われたとしても不思議では無いのになと。でもこれは疑問に感じてから10秒ほどで自己解決しましたよ。記事のなかでAIが反応したのは所謂「未成仏霊」だったからですね。未成仏霊は物質に近いというか物質そのものだとも言えると思うので、赤外線なのか何なのかも反応するのだろうなと。それに引き換え守護霊は所謂高級霊ですのでキメが細かいんですね。高級霊になればなるほどこの世の物質からは遠い存在になっていく。なのでこの世的なものには引っかからないのだろうと。そんな自己解決に至りました。
それともうひとつ気になったのは、そのお坊さんがお経を唱えることでそれらの未成仏霊がその場からいなくなったということです。いなくなったということは、家から出ていったということでは無く、おそらくはお経をあげたことにより浄霊に至ったのかなと。除霊では無く浄霊だと思うんだよな。これは賛否両論あるであろうと思うのですが(と言うか、すべての霊的現象には賛否両論があって然るべきですが)、お経そのものには未成仏霊を浄化させる力は無いと思っています。なぜなら、人間は死ぬことによってすべてを悟るものでは無いからです。肉体を脱いだからといって全知全能の存在になるわけではありません。単に霊魂のみの存在になっただけです。平たく言えば、中身は生きていたときからまるで変わらないのです。以前僕に入ってきた「亡くなってから1週間しか経っていない霊」もそうでした。普通の人間でしたもん。ですので死んだからといって瞬時にお経の意味を理解できるようなスーパーマンになるわけでは無いのです。生前お経の意味を理解していた方であれば話は別かもしれませんよ。そんな方はお経を聞いただけで心やすらかになってあの世へ移行することもあるのかもしれません。ですので基本的には未成仏霊に対してお経を唱えても、それにより浄化されることは無いのです。ではYahoo!の記事ではなぜお経によって未成仏霊の浄霊が成し遂げられたのかというと、それは単に、そのお坊さんの能力の高さによるものです。そのお坊さんがあげるお経は、お経であってお経以外のものが付加されているのだと思います。「心」というべきか「愛」というべきか。それに対してこの世にとどまっている鈍重な霊たちが反応したのでしょう。その方がお坊さんだから、結果として、それをお経に乗せる形になっているのだと思います。もしミュージシャンだとしたら歌に心が乗るのでしょうし、ダンサーであれば踊りに心が乗るのだと思います。先天的なものなのか後天的なものなのかは分かりませんが、彷徨える霊魂が浄化されてしまうほどの「何か」をお持ちの方っていらっしゃるんですよね。そのお坊さんが非常に能力の高い方だったからこそ、お経により20人もの未成仏霊が浄霊されたのであろうと。すごいことだと思います。

ここ何年か、家に置くほにゃららスピーカーって流行ってるじゃないですか。話しかけるといろいろやってくれるやつ。僕、絶対に置かないです。なぜ置きたく無いのかと言うと…もう書かなくても分かりますよね。そういうことです。おわり。

生まれる理由

僕だけだと思っていたのですが、どうも僕以外の方々も似たようなことを考えるらしいことが分かりました。何のことかというと、死を身近に意識した人が考えることです。

僕の舌に癌が見つかったのは2016年の6月です。1か月ほど放置したのち、楽しみにしていた妻との沖縄旅行を終えてから、そのことを妻に伝えました。「たぶん癌なんだよね」と。
新宿にある耳鼻科へ行き、「ああ、これは…」とその可能性をお伝えいただくとともに大きな病院への紹介状を書いてもらい、大きな病院での診察と診断を受け、その結果を受けてさらに大きな病院を紹介していただき、その大きな病院で2016年の8月に舌癌の手術を受けました。ステージ2でしたのでさほど切羽詰まったものではありませんでしたが、それでもやはり死を意識しました。
そのときに頭に浮かんでいたのは家族のことと生き方のことでした。今まで僕は周りの人間に優しくしてこれただろうか。退院したら妻とともにどこへ出かけようか、何をしようか。そんなことを考えていました。優しくする対象となる「周りの人間」とは不特定多数では無く、ごく親しい人間だけです。両手で数えられるほどの人の顔だけが、自然と頭のなかに浮かびました。妻と共にでかけたい場所とは、特別な場所では無く、近所の公園だったりスーパーだったりと、ごく身近な場所ばかりでした。そして「星空を眺める」や「語り合う」などの経験ですね、そんな経験を積み重ねて行きたいと思いました。普段の僕なら「あんな車に乗りたい」やら「ステーキを食べに行きたい」なんてことを考えるだろうと思うのですが、そういった物質的な欲求は皆無であり、頭に浮かぶことはどれも精神的なものであり、とても身近なものばかりでした。
おそらくは、それが僕の生きる目的とでも言いますか、使命とでも言いますか、そういうものなんだろうなと今は思っています。周りの人間に対して優しくすることと、体験を通して心を豊かにすること。これが僕がこの世で行いたいと思っていることなんだろうなと。

死に直面した方の多くが僕と同じようなことをお考えになるようです。ということはつまり、人間がこの世に生まれてくる理由とは、そのあたりのところにあるんじゃないのかなと思えます。

パワースポット

10年ほど前、ひとりで軽井沢に旅行に行きました。以前から泊まってみたかったHリゾートさんが経営するホテルに二泊し、日頃の疲れを癒しました。
性格上、あらかじめ予定を立てての旅は苦手なもので軽井沢でも行き当たりばったりの行動をしていましたが、最終日になり「長野って何があったっけなぁ…」と考えた結果、頭に浮かんだのが分杭峠でした。分杭峠とは「ゼロ磁場」のパワースポットで、所謂「気場」として知られた場所です。長野のどこにあるのかも知りませんでしたが、ナビがあるから何とかなるだろうとのことで向かってみました。
長野って広いですね。行けども行けどもまるで到着する気がしませんでした。後で知ったことですが、軽井沢と分杭峠はかなり離れていたようです。おそらくは横浜と富士山くらい離れているのではなかろうかと。そりゃいつまで経っても到着しないはずです。

かなりの時間をかけて山道を抜け、ようやく目的地に到着しました。平日の午前中でしたが、既に数十名の方がいらっしゃいました。山の斜面を削ったような場所に小さい丸太を切って作ったようなベンチがあり、皆そこに並んで座っていました。「うわぁ…」と思いました。いや、見た目が。僕はそこには入れないなと。そもそもここはパワースポットのはずだけれど特に何も感じないぞということもあり、その場所へは近寄りませんでした。で、「実は滝の前の方がパワーが強い」とどこかに書いてあったことを覚えていたので、その滝とやらを探すことにしました。看板は見当たりませんでしたが、なんとなく坂道を登り、10分も歩いたのかな、まずまず歩いたところに滝はありました。そこにも数台の車とともに10名ほどの先客がいました。「先生」なんて声をかけているので、何かしらの団体さんなのでしょう。その方々の脇を通り、滝の前に数十秒ほど立ってみましたが、僕が鈍感なのか何なのか、よく分かりませんでした。
せっかく来たのになぁ、なんてことを思いながら歩いてきた道を戻りましたが、数分歩いたところで身体の左側に微妙な心地よさを感じました。「なんだ?」と思い立ち止まって振り返ると、かなりの小規模ではありますが、山の傾斜に沿って水が流れ落ちている場所がありました。改めてその場所の前で静止してみたところ、やはりそこでした、心地よさの発信源は。単なる道の途中ですのでその場所には僕以外は誰もいませんでした。時間にして1~2分ほどでしょうか。その場所に立って「気」をもらい、分杭峠を後にしました。

全くの私見ですが、パワースポットってものは本当にあるのだろうとは思いますが、そこに集まる人が持ち込むモノによって、その場が持つ本来のパワーは失われるんじゃなかろうかと。もしくは移動してしまうとか。僕の感覚だけが正しいとは思いませんが、斜面のベンチにも滝の前にも正のパワーらしきものを感じ取ることはできませんでした。それに比べて、あの水が滴り落ちる「名も無き場所」の方が心地よいものを発していました。それも僕と土地とのマッチングの問題かもしれませんけども。

赤ちゃん

個人差はあれど、人間はこの世に生まれてから1年前後で言葉を発するようになり、また、歩き始めるようになります。それからも成長を続け、少しづつこの世での生活に順応していきます。逆に人間はこの世での生活を終えると、どこかにも書いたと思いますが、まずは幽現界と呼ばれる場所で数年間の休憩生活に入ります。その期間を経ることで、あの世での生活に順応していきます。要は身体をまとってこの世に現れ、まずは身体を使った生活に慣れるための期間を過ごし、身体を脱いでこの世を去り、身体を使わない生活に慣れるための期間を過ごすわけです。というと若干の語弊が生じるのですが、まぁここではスルーしましょう。

赤ちゃんとしてこの世に生まれてくる霊魂は、所謂高級霊です。あの世での学びを重ねた霊がこの世へと降りてきます。そしてこの世での生活を通して霊的レベルは下がり、ある時期を迎えるとあの世へと帰っていきます。って、こんな話を続けているといつまでも終わらないので言いたいことを言うとですね、赤ちゃんを抱っこすると気持ちよくありませんか?温かさだったり、いい匂いだったり。赤ちゃんとのスキンシップにより癒されるように私は思います。これ、赤ちゃんが高級霊だからですよね。いや、肉体をまとってこの世に生まれているわけですから既に高級霊では無いんですけど、僕らに比べれば限りなく高級霊に近い存在だと思うんです。赤ちゃんに触れたときの心地よさって、ここから来てるんだろうなと思っています。いつまでも触れていたい。ヒーラーが目指すところってここなんだろうなとも思えます。

病院とヒーリング

身体に不調を感じたとき、私は迷わず病院へ行きます。診察をしていただき、薬を処方していただきます。身体の不調を取り除く手段は他にもあるとは思いますが、私は病院へ行きます。「ヒーリングなんてことをやってるんだから自分でヒーリングすればいいのに。」と思われる方もいらっしゃると思います。でも自分のなかでは、身体に不調を感じたときの最優先は病院です。その次に、ヒーリングです。
実際にはこんな感じです。身体のどこかに痛みが出たと。では病院だということで病院で診察をしていただきます。薬をいただいて帰ってきてから、患部に自分でヒーリングを行います。これがひとつめ。次によくあるのが、病院が開いていない時間帯の身体の不調です。そのような際には迷うことなくヒーリングです。ヒーリング以外に手段はありませんからね。ヒーリングで状態を快方に向かわせておいて、その後、病院です。もちろんヒーリングをおこなうことにより、病院へ行く必要が無くなることもあります。

打撲や裂傷では無い限り、身体の不調の原因は心にあると思います。もっと言うと、原因は霊体にあると思っているということです。霊体の不調が先に起こり、それが原因で肉体に不調が起こります。肉体、つまりは身体に不調が出ている状態にある場合には、身体へのアプローチが最善だと思えます。たとえば身体が痛いのに最初に霊体にアプローチするというのも、ダメではありませんが、最善とも思えません。ですので私は身体に何かが起きた場合には病院へ行きます。まずは物理的な部分を診ていただき、その後、もしくはそれと併用するかたちで霊的な部分に自らアプローチします。
このあたりの考え方は人それぞれだと思います。そしてその考え方はどれも正解だと思います。

痛い、おかしい、と思ったら病院へ行き、それを補完するかたちでヒーリングをする。これが私の基本です。